228、火沢睽(かたくけい)上爻占断

周易64卦384爻占断

周易64卦384爻占断

228、火沢睽(かたくけい)上爻

◇ 睽とは何か?

火沢睽(かたくけい)は、「背く」「隔たる」「一致しない」ことを象徴する卦です。上卦は離(火)、下卦は兌(沢)であり、火は上へ燃え上がり、沢は下へ潤い沈むため、本質的に方向が逆で、相い和しにくい象を持ちます。睽は争いそのものを勧める卦ではありません。むしろ、人の心が離れやすい時、立場・意見・価値観が食い違う時、正面から進めば必ず衝突する時において、どう背反に処し、どう和を保つかを教える卦です。強引な一致を求めれば破綻し、距離を見極めて対処すれば咎を免れる、その「分かれてなお道を失わぬ智慧」を発揮するかが睽の核心です。

◆ 卦全体が教えてくれること

睽の卦は、和合は困難で正攻法は通りにくいが、完全な断絶ではない、という状況を示します。この卦において重要なのは「どう一致するか」ではなく、「どうズレたまま道を保つか」です。相手を正そうとすれば対立が深まり、自らを曲げれば道を失う。そこで必要となるのが、疑いを疑いのまま膨らませず、事実の輪郭を確かめ、誤解のほどける道筋を自ら整える、という慎重さです。上爻は睽の極に位置し、離の烈しさが疑念と結びつくと、最も過激な想像と最も乱暴な決断へ傾きやすい地点ですが、同時に、その疑いが霽れて陰陽が和すれば、背反が収束へ転じうることも示しています。

◆ 上爻の爻辞と解釈

【爻辞】

「睽(そむ)きて孤(こ)なり。豕(し)の塗(と)を負(お)うを見(み)る。鬼(き)を一車(いっしゃ)に載(の)す。先(さき)にはこれが弧(ゆみ)を張(は)り、後(のち)にはこれが弧(ゆみ)を説(と)く。寇(あだ)するにあらず婚媾(こんこう)せんとす。往(ゆ)きて雨(あめ)に遇(あ)えば吉(きち)なり。」

【象伝】

「雨(あめ)に遇(あ)うの吉(きち)は、群疑(ぐんぎ)亡(ほろ)ぶるなり。」

● 解釈

上爻は睽の終局にあって、背反が極まり「孤」となりやすいところです。ここで起こるのは、相手が「比」に親しみ「応」を避けているように見える、という疑念です。その疑いが強まると、相手を汚らわしいものとして見るほどに心が曇り(「豕の塗を負うを見る」)、恐れや嫌悪が誇張され、まるで鬼を車いっぱいに載せたものを見るかのように、必要以上の脅威として感じてしまいます(「鬼を一車に載す」)。すると、離の烈しさが発動して、まず弓を張り、断罪や排撃の姿勢に出ようとする(「先にはこれが弧を張り」)。しかし上爻は離でもありますから、明により省察が働けば、その疑いが自分の側の思い込みであったこと、あるいは相手の事情が別にあったことが見えてきます。そこでつがえた弓を解き、攻撃ではなく和合へ向かう(「後にはこれが弧を説く」)。もとより寇するためではなく、婚媾せんとする、とは、外面の対立の底に「和したい」「結び直したい」という意図が伏していることを示します。最後の「往きて雨に遇えば吉」は、陰陽二気が交わり和する象であり、相互の疑いが晴れて、背きが収束へ転じるしるしです。象伝が「群疑亡ぶ」と言うのは、疑いが一つ消えれば連鎖していた疑いもほどけ、争いの根が失われる、という要点にあります。

◆ 含まれる教え

この爻が告げる教訓は、疑いが事実に先行した瞬間に、心は「汚れ」と「恐怖」を作り出し、行動は「弓を張る」方へ傾く、ということです。だが、睽の極においてなお吉へ転ずる道が残されているのは、離の明によって自省し、攻撃の手を解き、結び直す方向へ踏み出せるからです。結局、背きの時に最も危ういのは相手そのものではなく、群がる疑いが自分の内で増殖していくことであり、それを止めれば道は回復する、というのがこの上爻の骨子です。

◆ 仕事

仕事では、疑心暗鬼が最も大きな損失を生みます。相手部署や同僚の動きが「自分外し」に見えたり、説明の不足が「裏切り」に見えたりすると、確認より先に断定が走り、強硬な言い分や対決姿勢(弓を張る)に出やすい時です。ここで必要なのは、証拠と事情を静かに集め、誤解の余地を潰してから言葉を選ぶこと、そして対立を固定化する前に「つがえた弓を解く」ことです。いったん紛糾した案件でも、筋道立てて疑点をほどけば「雨に遇う」ように落着し、雨降って地固まる形で再整備されることがあります。ただし、拙速な糾弾や決めつけは、群疑を増やして自滅を招くので慎むべきです。

◆ 恋愛

恋愛では、相手の態度の揺れや距離感が、そのまま疑いの材料になりやすい時です。「別の誰かがいるのではないか」「自分は軽んじられているのではないか」といった想像が膨らむと、相手が「汚れて見える」「怖く見える」という極端な心像を作り、強い言葉や詰問で関係を壊しやすい(弓を張る)傾きがあります。けれどもこの爻は、最後に「寇するにあらず婚媾せんとす」と言い切ります。疑いを事実の確認へ戻し、誤解の糸をほどく方向へ進めば、和解・復縁・再結合(雨に遇う)の兆があります。焦って断罪せず、相手の言葉と事情を丁寧に聴き、疑いが晴れる余地を自ら確保することが肝要です。

◆ 火沢睽(上爻)が教えてくれる生き方

上爻が教える生き方は、「疑いに呑まれる前に、明智でそれを断ち、つがえた弓を解いて和へ向かえ」という一点に収れんします。背反が極まる時ほど、心は孤になり、孤は疑いを呼び、疑いは敵を作ります。しかし、離の明が働けば、敵と思ったものが実は味方への道であったと悟ることもできる。寇ではなく婚媾へ、対決ではなく交わりへ。雨に遇うとは、和合が自然に成るのではなく、疑いをほどく努力を経て、陰陽が整うことです。睽の終わりにおいて、最終的に吉を得る鍵は、相手を裁く前に自分の疑いを裁く、その静かな転回にあります。

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